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Results matching “5 F=5cm” from 新地のドゥルーズ

長崎市浜町。撮影日=2023/12/05。コダックレチナ=ヘリゴン。M42改=Heligon 1:2 f=5cm。α7sで撮影。時系列。拡大画像あり。撮影日の4。
ほどなく陽が陰って路地に光が消えた。こうなると早々に退散するしかない。



















長崎駅前。撮影日=2023/12/05。コダックレチナ=ヘリゴン。M42改=Heligon 1:2 f=5cm。α7sで撮影。時系列。拡大画像あり。撮影日の3。
12月の午後3時前後という時間帯に撮影するのは初めてで陰影がいつもと違っていた。



















蛇足(2023/12/23記)



「オール讀物」。読書で元気!五木寛之。活字は孤独の特効薬。ふむふむ。
長崎市住吉町。柳谷町。撮影日=2023/12/05。コダックレチナ=ヘリゴン。工房M42改=Heligon 1:2 f=5cm。α7sで撮影。時系列。拡大画像あり。その2。











これはiPhone。
(7sに取り付けてるのは工房M42改のヘリゴン)



長崎市岩川町。撮影日=2023/12/05。タクシーの左に緑色のバケツをもった老人がいる。そばに人ひとり通れる路地があり僕が5歳くらいまでいた家がある。写真の最奥には鳥居が見える。山王神社の一本鳥居である。階段周辺で遊んだ記憶がある。

さて。この日はシャトルバスを出島で降り、浦上を皮切りに住吉、長崎駅前、浜町と電車で移動する。タフな一日だった。コダックレチナ=ヘリゴン。工房M42改=Heligon 1:2 f=5cm。これとα7sで撮影。まずは浦上地区。時系列。拡大画像あり。その1。























レチナ=ヘリゴン。M42改=Heligon 1:2 f=5cm。これとα7sで撮影。
撮影日=23/12/04。拡大画像あり。時系列。その2。















レチナ=ヘリゴン。M42改=Heligon 1:2 f=5cm。これとα7sで撮影。
撮影日=23/12/04。色補正なし。拡大画像あり。時系列。その1。















レチナ Heligon5cm

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M42改=Heligon 1:2 f=5cm。これとα7sで撮影。撮影日=23/12/01。拡大画像あり。時系列。













コダックレチナから抽出したM42改のHeligon 1:2 f=5cm。これとα7sで撮影。撮影日=23/11/29。12/02。拡大画像あり。時系列。
アタマは「おみやげです」と頂戴したHeligonレンズと併せて到来した野菜をさっそく食す。(もやしは別)











ここんところアタリがなかったがこの三冊はいい。2023/12/01撮影。









レチナ抽出 Heligon1:2

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コダックレチナ抽出M42改のHeligon 1:2 f=5cm。工房の知人が届けてくださった。α7Rに取り付けた姿。拡大画像あり。



ずっと天気が悪かったが今日はカラッと晴れる。さっそくこれで家の周辺を。撮影日=2023/12/02。拡大画像あり。時系列。
フードが少し長かったか。ケラレが出る。



















KODACK Ektar 1:3.5 F=5cm

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KODAK EKTAR 5cm3.5とα7s。知人工房M42改。
4月2日。時系列。











Summarit f=5cm 1:1.5

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α7RとSummarit5cm。11月11日。F8。時系列。曇天。















Summarit f=5cm 1:1.5

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画像多し。工房知人にお借りしたSummarit5cm。使うのは初めて。



翌朝これで。すべてF5.6。時系列。

























エリオグ=Officine Galileo Eliog f=5cmと初代α7R。工房M42改。













これはα7sと。





当サイト紹介のレンズを使ってみたい、譲って欲しいと思われる方は、



までメールください。工房主と相談してお譲りします。
(メールアドレスは画像です、コピペできません)

Contax Sonnar 1:1,5 f=5cm

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α7RとCarlZeissJena Sonnar 1:1,5 f=5cm。絞りはF11止まり。知人工房によるEマウント改。











GALILEO ESAOG 1:2 f=5cm

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Daiwaの36mmかぶせフードを付けたESAOG5㎝(M42改)。NEOKINOで撮影。自然光。以下はそのESAOG5㎝を初代α7sにつけて撮影。















α7sとM42改=CZJ(CarlZeissJena)Sonnar 1:1,5 f=5cm。最初の絵、中央部にフレアというか内面反射か、そんな感じがありますね。(気のせいか)











CZJ Sonnar 1:1.5 f=5cm

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α7sとM42改=CZJ(CarlZeissJena)Sonnar 1:1,5 f=5cm。









Carl Zeiss Jena Sonnar 5cm f=1.5

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工房Eマウント改=Carl Zeiss Jena Sonnar 1:1,5 f=5cmと初代α7R。色補正なし。F5.6で撮影。家の庭。山椒の実がついている。アゲハが丸坊主にするのだが、近年すっかり飛来しなくなって実がつくまでに。











これは外。



OFFICINE GALILEO ESAOG 5cm

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初代のα7RとOFFICINE GALILEO ESAOG 1:2 f=5cm。
カラー補正が必要とも思えるがこの際補正せずに。SILKYPIXのノーマル現像。
撮影日:4月4日











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(上)α6300とCarlZeissJenaのFlektogon 4/20で撮影。(下)α7sと同じレンズ。





江川隆男と堀千晶の対談がいい。そこに出るラプジャード。「常軌を逸脱する運動」の線で掘り下げる(広げる)ドゥルーズ。出来事、概念、内在、欲望する諸機械・・もいいけど「常軌を逸脱する」てのはもっといいかも。リゾームを全面的に受け入れる生だもんね。「ミライon」での最初の「当たり」です。

6300でレンズがくっつきそうになるまで寄る。対象はVARIOシャッター組み込みの正体不詳レンズ。ずっとeBayで探索し続けている。





ESAOG 1:2 f=5cmでのVARIO・・。

ペンF G.Zuiko 20mm F3.5

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工房知人から借りてきたペンF用のG.Zuiko 20mm F3.5とα7s。最短撮影距離で開放で撮影。
モデルはライカⅠc。APS-Cサイズ切。



α7RとGALILEO ESAOG 1:2 f=5cm。F2.8で撮影。
ライカは小生が生まれた1949年製である。知人に譲ってもらった。ビドムとセットで。



カンバスサイズでケラレ除去。(F5.6)

NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm

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α7sとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm(Eマウント改)。









M42改造のSummar 5cm

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α7sと知人工房製のM42改=Summar f=5cm 1:2。
ゲステル・サルトリウスによれば「結像がソフトすぎてあまり人気がなかった」となる。









Summar 5cm F2

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α7sと知人工房製のM42改=Summar f=5cm 1:2。
先日読み終えた『カササギ殺人事件』(下巻)。アンソニー・ホロヴィッツ。
BSで LIVEドキュメンタリ映画『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK』てのをみる。ロン・ハワード。
テーブルシャシンをしたくなってもぞもぞ。w





その後花へ向かう。午前10時半。









ライツ Summar 5cm F2 M42改

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α7Rと知人工房製のM42改=Summar f=5cm 1:2。











summar 5cm ミライon図書館

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α7Rと知人工房製のM42改=Summar f=5cm 1:2。
3月22日は寒い。一輪だけのヨシノ。下は小学校の一本だけが満開。種類が違うのだろう。





図書館下見。植込みは雑多な樹木・植物が仕込まれている。駐車場は広い。





Summar 5cm f2 M42

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知人工房製のM42改=Summar f=5cm 1:2の姿。





以下α7sと。









Summar 5cm M42改

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知人工房製のM42改=Summar f=5cm 1:2。
(α7sとSUMMICRON-R 50mm)





No.333***は1937年。拭き傷がある、ということだ。来歴がどうあれ80年が過ぎている。
Summarを手にする者が一様に感慨深い思いをするのはレンズの「年月」がもたらすものだろう。玉ぼけを拡大すると拭き傷だけではない年月の痕跡を見出す。工房からの帰りに寄り道をする。以下すべてα7sとSummar 5cm。ホトケノザは逆光。











家で。モデルはこれも知人工房製のM42改=Officine Galileo TEROG 4cm F4。撮影距離35㎝。F3.5で撮影。

SONYのα7sと工房作Eマウント改造=NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。





湊かなえ 夜行観覧車

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妻が読みこのあと資源ゴミに回収される=湊かなえ。一気に読了。記念撮影。以下の絵はすべてSONYのα7sと工房作Eマウント改造=NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。



ラスト=「週刊フタバ」の記事はすごい。ニンゲンはリゾームにその場を生きるのだ。TVドラマをみるように読める。前向きに解釈する。w





このコーナーは見知ってる、ような場所。
α7sとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。







梅雨前の好天。ひさしぶりに知人工房を訪ねる。
帰りに抽出レンズを2本預かってくる。並べて撮影した。



あまりにもサーフィスがきれいということで、右のレンズ(テッサー5㎝ 1:4.5 f=5cm M42改)の字面に焦点をあてた。左の刻印は読めない。Componon 1:4/50です。エンラージャー用のレンズ。これもM42に改造しています。
両方とも程度はとてもいい。ツァイスイコンは1930年代というから、保存の状態がよかったのでしょう。

夜中にα7sとこれらでテーブルフォト。最初がテッサー、次がコンポノン。今後が楽しみですね。ピントは「肉」にとってます。



3月23日。昼頃。α7RとCarlZeissイエナ5cm_F1.5。
特徴のあるレンズ。知人工房のEマウント改造。
①F4辺りからは恐ろしくシャープ。F5.6に絞らずとも遠景がいける。第一、F5.6からF11までの幅は狭い。F2からF5.6ですべてまかなえる。懐の深いレンズ。
②前ボケに特徴あり。
③α7Rでは好天では周辺落ちが目立つ。α7sのほうが相性がよい。もっともこれはレンズの責めではない。デジタルカメラ側のこと。













α7sとEマウント改造のCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









さてこれはくだんの池澤選=日本文学全集「石牟礼道子」。完本「春の城」と併読することになる。期日までに返却できるか。

CarlZeiss Jena Sonnar 5cm F1.5

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α7sとEマウント改造のCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









α7sとEマウント改造のCarl Zeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









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α7sとEマウント改造のCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。
少し絞ると、どこまでシャープなんだと思わせる。F4と5.6の間くらいか。



いつものクセで、食べ始め飲み始めして、あ、シャシン。うしろに引けず、のけぞって撮る。中央ピント以外は全部ボケている。これでF2くらいかな。そいでもシャープなんですよね、これが。







拡大画像横=1840。α7Rで撮影。SUMMICRON-R 50mm(M42改造)F8相当_固定絞り。CarlZeissJena Sonnar 1:1,5 f=5cm。M42改。12月29日午前9時37分。



次なるはフジカ35EEのFUJINON 4.5cm(M42改造)F5.6で撮影。12分後の午前9時49分。双方とも色補正なし。そのまま。撮影間隔12分の日照差があるかもしれない。画角5mm分も出る。最奥は当地の海上空港。

α7RとCarlZeissJena Sonnar 1:1,5 f=5cm。M42改。











新しい抽出=フジカ35EEからのフジノン45mm1.9で撮影。今回はM42改造。絞りも元の装備を生かしている。いずれも使用カメラはα7R。工房にて。中央はCarlZeissJena Sonnar 1:1,5 f=5cmで、すぐ左が新作CマウントのKominarのTelevision lens 25mm。手前の塩ビ=ボケてるのはこれも今回新作=リコー300S抽出の4.5㎝。



これは家で。α7Rとフジノンで。ヘリコイド=M42-NEX 17-31mmを使う。



逆にこれはリコー4.5cmでフジノンを撮っている。



ラスト。パナG2とKominar Televisionで撮影。隅がほんの少しケラレるか。



さて、持ち出しが楽しみだ。
NIKKOR-H・C 1:2 f=5cmそのもの個物を撮影。最初はDurstComponon105mmで。いずれも使用カメラはα7R。

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次なるはCarlZeissJena Sonnar 1:1,5 f=5cmで。



さて。
今月はじめに、長い間お世話になっている無農薬農業家からこのようなチラシが配布された。胸を打たれた。この方(女性)は妻によると75歳くらいだという。ウチとは25年以上の取引があった。ぜひ拡大画像でご覧になってください。こんな勁い(つよい)ヒトもいるのですね。鼓舞されます。そんなメッセージとして僕は受け止めました。



今朝12月25日に電話があり、合鴨は別業者で今年まではどうにか仕上げることができた。形は悪いが、個数はある、ということだった。ありがたい話だ。
何事にも終わりはあるし、いつかは「店じまい」もある。僕は非力で、ちょっぺ(下手くそ)な男だから、男性であれ女性であれ生産・製作に携わる人間に一種の敬意(リスペクト)に似た感情をもつ。ええなあ、と。
妻も僕もそれぞれの知り合いに、今朝の吉報=鴨を届けることができる。今年までだ。
NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。知人の手になるEマウント改。ピント合わせのストロークがとても長く、ここぞというところまでぐるぐるやります。
いいレンズです。この優美な姿。カメラにつけてるだけで決まってる。
(NEX-7,SUMMICRON-R 50mmにて撮影)



12月24日。店がとても混んでいた。先日みつけたアイテムをランドスケープでワンショットする。続けてポートレイトを。と、その時ぬっと女子が現れた。とっさの出来事で、その女の子も固まったふうであった。まあ電子シャッターなので無音なのが救いである。こんなこともあるんだ。





では、怒涛のアップ、クリスマスバージョン。w

























画像多し。10月31日。快晴。雲一つない午前中。撮影には不向きだが出たついで、というのがある。α7RとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm=Eマウント改。















NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。接写もできる万能のEマウント改。
まことにもっていいレンズです。まずもってこの姿を気に入ってます。
(NEX-7,SUMMICRON-R 50mmにて撮影)



で、α7Rにつけて夕刻17時前。10月末日のムラサキシキブはすっかり実を落としています。









α7sとCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









コミックのカバー文字に「被写界深度」。



こちらは「血の轍」を、α7sとCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cmで撮影した絵。どこかで通底する感覚がアートには、ある。



今朝の庭。枯れ枝に交じってクレマチスが小さく咲き始める。







モノクロ。

α7sとCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。Eマウント改。
1935年にはこのように完成されたレンズがあったわけです。知人の手にかかり、意匠の改変があっても、「描写」をそのまま保ってきたわけです。(むしろデジタルの時代には機能はアップしてるのかもしれない)
この国の「選挙戦」なんぞには関係なく、ゾナーを通過した光が、デジタル技術で絵巻物となる。それも2017年にです。
ちょっとナイーブにすぎるけれど、うむ、ありがたいなあとしみじみ思うのでありんす。









α7sとCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。Eマウント改。
でかい豊水(?)。梨は「親」がなんだかわからないくらい品種改良されてるからなあ。メロン大。
ところでふつうに下向きに撮ると、滑らかなヘリコイドが、降りてくる。鏡筒に指を添える必要あり。

α7sとCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









知人工房製作。ずっしり重い。意匠がいいなあ。ヘリコイドがレンズ自重で下りてくる。そのYouTube動画。埋め込み。

Kilfit社(キルフィット)製のMACRO ZOOMATAR D 1:2.8/4cm。



知人工房から借りてきました。古墳時代の高坏(たかつき)のようなスタイル。40mmで超マクロ撮影ができる。異種もあるようです。
「これはごきげんなレンズですよ!」と言う。おもわず「ごきげん」には大笑いした。気持ちがわかるからねえ。ファインダに出る絵に感動する、それは実物に触れた者でなければちょっとわかりませんかね。

さて。帰途のラジオでラスベガスの乱射事件のニュースを聞いた。テレビでは実兄が、「そんな弟じゃないんだけど・・」みたいなことをインタビューで話している。日本だと事件当時者の身内が堂々と話すなんてことはない。お国柄、社会の違いはある。
知人と直前にそんなハナシをしたばかりだった。島国日本人て、妙な人種ですよね、とかなんとか。
(金 正男殺害薬物はサリンではなく、VXなんですね。間違いました。w)
そんななか、「ごきげん」なレンズを持ち出して遊んでみようと思っているところだ。爺もまた、「明日の米びつ」(前記事の内田樹=「身内ファースト」の中にあることば)がいちばんなんだろうか。

持ち出すまえに、MACRO ZOOMATARで家撮り。モデルは、Sonnar 1:1,5 F=5cm。(1935年/Contax)
工房製のブラスとヘリコイドがすごいです。滑らかさは秀逸。

α7s NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm

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α7sとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。











ジョシュア・グリーンの「モラル・トライブス」は僕が二人目の借り受け。読まれてないんだなあ。上巻も写真に開いたあたりだけが読まれたと推測される。(そこにさしかかるとやわらかくなる)「トロッコ問題」の箇所だ。
α7sとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。





上のは昨日のことだ、今日はNIKKOR-H・C 1:2 f=5cmとライカをもって出た。





録画していたNHKドキュメンタリー「いきものがかり吉岡聖恵 ポートレイト」をついこのあいだみた。そいでまあPVをみたくなって・・NIKKOR-H・C 1:2 f=5cmでモニタを撮る。



この日は爺は、小針智意子センセ指揮のNコン(2009年)=郡山第二中の歌をもHDから検索して聴く。そもそも、いきものがかりを知ったのは何かいきさつがあったのだが、このNコンではないような気がする。
YELLのPVは映像が素晴らしくこれをみるときまってアンジェニューの35-140mmを想起してしまうのです。はい。
(2012年にYELLについて、ここで記事にしてます。)
α7RとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cmで撮影したNIKKOR-Q・C Auto 1:3.5 f=135mm。使った形跡が感じられないと思うほどレンズ、ブレードがきれい。



この135mmで。



次はH.ROUSSEL 120mmで。



次は軍用KE-28Bで(6in)。



最後、Durst Componon 105mmでも。

カナダライツKE-28B,フジカ35EEフジノン45mm,SONY E1.8/35mmOSS,NIKKOR-H・C 1:2 f=5cmやらで、ギガバイトのGA-EX58-UD4のクーラー上に「肉」を。
年末。暖かい雨の日の手すさび。APS-C用レンズをフルサイズ機に、ライカ判レンズをAPS-C機にとか。

偵察カメラ=カナダライツ=KE-28B(α7s)。



フジカ35EEフジノン(NEX-7)。



SONY E1.8/35mmOSS(α7s)。



NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm(α7R)。



ところで「肉」といえば・・。ギガのマザボを外したわけは電源ユニットを必要としたから。
若いお友達が不調PCを抱えてやって来る。5,6年ぶりかなあ。恰幅ええなあ。SONY E1.8/35mmOSS(α7s)。



彼のPC、電源が逝っていたので、自分のサブ機からケイアンの電源ユニット=KT-650ALを抜いてつけてあげる。遅いお昼を一緒にして、家に帰るとこれを土産に置いていってた。おお、これはアニさん高くつきましたねえ。NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm(α7R)。
右手にあるのがカナダライツの6インチレンズ。

NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm

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α7sとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。





Epson Print Layout Ver 1.3.3

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Epson Print Layout Ver 1.3.3とSILKYPIXでプリント。
RAWファイルをそのままSILKYPIX(Ver7.0.9.0)にドラッグアンドドロップ。
プラグインEpson Print Layoutで開いたところ。拡大画像を参照してください。設定タブもすべて開いてます。「印刷」を押すだけです。



結果をキャプチャ画面と比較するため、プリントしてモニタ画面の前に置いて、α7RとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cmで撮りました。



少しあか抜けてますか。見事ですね。
画像多し。要注意。α7RとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。Eマウント改。













改造 ニッコール5cm

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画像多し。要注意。知人が届けてくれたNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。Eマウント改。
無限遠が出るように改造。フード付き。ううむ。敬意を表して記念撮影。
(NEX-7,SUMMICRON-R 50mm)



さっそく外出。時系列に。いいレンズです。PCのかた、ぜひ拡大画像でご覧になってください。レンズの完成度が知れます。花の「色かぶり」はカメラ=α7Rのせいかもしれません。
写すまえにぱくつくクセの一枚目。w















このお店は監視カメラが5台ほどあります。なぜかこれだけが倒立しているのです。

ふん、と鼻であしらわれる画像。そういうものがあるとする。それを僕はやっている。
まあ僕独自のスクラップブックとでも言っておきます。好みだからしかたがない。w
これは今朝。11月19日の朝日「be」の「フロントランナー」。撮影は時津剛。背景(特に照明)を意識している。



いっぽうこちらは「みちものがたり」。撮影は飯塚晋一。雲がすべて。



照明(イルミネーション)と雲は、僕の好きな素材。新聞でであろうがフリーペーパーであろうが、はたまたTV画面であろうが、好みであれば迷わずファインダで切り取る。たとえばカブスがリーグ優勝した時、TVに街の様子が出る。それをショットする。ボッシュの絵風でいいんだなあ、これが。w



最初の2枚はα7sとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。最後はα7sとEL-NIKKOR 40mm。

NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm

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α7sとNIKKOR-H・C 1:2 f=5cm。









NIKKOR-H・C 1:2 f=5cm

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ファインダを覗いていると癒される。
拡大画像は横1200にしています。特段の画像処理はしていません。PhotoshopのWeb用保存=品質90%。

α7Rと、最初はフォクトレンダーのCOLOR-ULTRON 1,8/50。
手前にボケてNIKKOR-S・CとNIKKOR-H・Cの50mmが置いてあります。
(どのレンズを使ったか間違えないように)
ピントは中央フィギュアの足元。絞りはF4。



次はNIKKOR-HC 1:2 f=5cmで。



最後はNIKKOR-S・C 50mm 1:1.4(非Ai)



色味は、レンズではなくカメラ側で決定されているということがわかりますね。フィルム時代にもコダックとフジの色味は違っていました。似たようなことですかね。
画像多し。注意。
NIKKOR-H・C 1:2 f=5cmについては、

「ニッコール千夜一夜物語」で詳細が知れます。

「ちかごろ市場には滅多に出ない」と知人は言ってました。むべなるかな。「千夜一夜」で納得しました。シリアルナンバーから1946年製造。まさにスタートの年です。
個物はとてもきれいです。いやはや貴重なアイテムで恐縮します。それをα7Rに取り付けた姿です。NEX-7とTRICOR35mmで撮影。



では今朝の庭。F4で撮影。使ったアダプタではここが最遠。(いわゆるインフが出ない)
いいレンズですね。近場専用でも十分。





以下は最遠ではありません。2枚目は逆光。枯れた(朽ちた)植物は好みです。





ラスト。距離1メートル。開放。

Icarex 35 テッサー50mm2.8

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これはテッサー、Carl Zeiss Tessar 2,8/50です。知人によるM42改造です。久しぶりに動画にしたのでキャプチャを。ピントがきてませんけど。w





α7Rとこのテッサーでテーブルフォト。最初は知人工房で。次は自分ち。シャープで、しかも艶がある。テッサーですね。Icarex 35についていたものらしい。60年代後半かな?





(追記事)と、ここまでやってると、
3枚目の画像にあるNIKKOR-H・C 1:2 f=5cmをM42マウントにして知人が来訪。で、さっそくニッコールでテッサーを撮影。PSの自動カラー補正をしている。



フーコー ギリシャ回帰

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 1986年、フーコーの「自己の技芸」についての聞き手クレール・パルネに対するドゥルーズの言。
ドゥルーズがフーコーにどれほど直感的に惚れ込んでいたか、手にとるように読める。それにフーコーがその対談の場にいるかのような実に生々しい臨場感がある。そんなドゥルーズの様態、分析のテクネーも素晴らしい。
このブログ記事タイトルで検索がオモテに出るかな?でないだろうな。SEO的には僕の力量は明らかに不足してるもんなあ。
ま、ともかく「自炊」して原訳(宮林訳=これ改行なし)のままアップする。あなたがドゥルージアンで、さらにはフーコニストで、ついでに若き30から40代の男であれば・・ジイの「読んde!!ココ」自炊の労苦も悦びに変容するってもんですな。w
あ、しかし、以下のドゥルーズの言はカレの61歳時です。あるいはあなたがその年齢になればもっと「みぞおち」の理解が降りるのかもしれません。老婆心かな?

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パルネ
そうはおっしゃいますが、あれはやはりギリシア人への回帰なのではありませんか。そして「主体化」という言葉は、主体の再導入につながる曖昧な表現ではないでしょうか。

ドゥルーズ
ちがいます。ギリシア人への回帰などありはしません。フーコーは回帰というものが大嫌いでしたからね。自分で体験したこと以外を語ろうとはしなかったし、 自己の抑制、いや、もっと正確にいうと自己の生産は、フーコーにおいては自明の事柄だったのです。フーコーが、主張しているのは、ギリシア人は主体化を「創始」した、自由人の競合関係(競技会、雄弁術、恋愛など)という体制がそれを可能にしたのだということです。けれども、主体化のプロセスは並外れた多様性をもっています。キリスト教世界の様態はギリシアの様態とはまったく別のものだし、しかも主体性の生産は、宗教改革を待つまでもなく、すでに原始キリスト教の時代から、個人と集団の別を問わず、さまざまな道をたどってきたのです。キリスト教徒における新しい生存の美学を論じたルナンの文章を思い出すべきでしょう。ルナンが問題にしているのは、皇帝ネロもそれなりに助長してしまった、そしてアッシジのフランチェスコに最高度の表現を見出すことになる美学的な生存の様態です。狂気との、そして死との対決。フーコーにとって重要なのは、主体化はいかなる道徳からも、そしていかなる道徳的コードからも区別されるということです。
主体化は倫埋と美学にまたがるものであり、この点で知と権力の性格を帯びた道徳と対立するのです。したがってキリスト教の遺徳が存在し、もう一方にはキリスト教的倫理とキリスト教的美学の複合体が存在する。そして両者のあいだであらゆる種類の闘争が戦われ、あらゆる種類の妥協がおこなわれることになるのです。いまの時代についても同じことがいえるでしょう。私たちの倫理とは何か、私たちの審美的生存を産み出すにはどうしたらいいか、現行の遺徳的コードには還元できない私たちの主体化のプロセスはどのようなものになるのか。どのような場所で、そしてどのようにして新たな主体化はあらわれてくるのか。いまの共同体には何を期待すればいいのか。ですから、フーコーがギリシアまでさかのぼったところで、『快楽の活用』やそれ以外の本で彼が関心をよせるのは、いま現在おこっていることであり、いまの私たちが何者であり、何をしているのかということなのです。現代に近いものであれ、遠いものであれ、歴史的形成は私たちとの差異において分析され、この差異を点検するために分析されるにすぎないのです。私たちほみずからに身体を与えるけれども、それはギリシア的身体やキリスト教的肉体とどう違うのか。主体化とは、生存の様態を、あるいは生の様式を生産することなのです。
 ならば、「人間の死」という主題と、審美的主体化という主題のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。道徳の拒絶と倫理の発見のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。問題に変化がおこり、新たな創造がおこなわれているのですl。それに、主体化は生産されるものであり、「様態」なのだという事実をおさえておくだけでも、「主体化」という言葉のあつかいには相当の用心が必要だということはじゅうぶん理解できるはずです。フーコーは「自己そのものと正反対であるような自己の技芸」という言い方をしています。もし主体があるとすれば、それは自己同一性なき主体なのです。プロセスとしての主体化は一種の個体化であり、個体化は個人的であっても集団的であってもいいし、一個人についておこなわれても、多数についておこなわれてもいいい、そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、(事件)タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。ひとつの生や一個の芸術作品が主体として個体化されているかどうかは、まったくもって定かではない。フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の(事件)、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。そんなふうであるとか、そんなふうに見られるということがフーコーを苛立たせたこともあります。しかし、フーコーの全作品がそうした強度の束によって培われていたというのも、やはり否定しようのない事実なのです。〈可視的なもの〉も、フーコーの場合には輝きやきらめき、あるいは稲妻のような、光の効果だった。言語は巨大な「ある(ilya)」が三人称に置かれたものにほかならないし、要するにこれが人称の対極に位置するわけです。フーコーの文体を成り立たせる強度の言語。これもシユレーターとの対談に出てくることですが、フーコーは「愛情」と「熱情」の対比を敷桁してみせ、自分は熱情の人であって愛情の人ではないと述べています。この文章のすばらしさは、即興の対話ということもあって、フーコーが愛情と熱情の区別に哲学的な意味合いをもたせようとはしていないところにあります。無媒介的な、生のレベルで語っているからです。愛情と熱情の区別は恒常性と非恒常性の方向でなされているのではない。いちおう同性愛と異性愛を話題にしてはいますが、かといって同性愛と異性愛の対比をおこなっているわけでもない。フーコーが述べているのは、むしろ、個体化はふたつのタイプに分かれるということなのです。一方の愛情は人称にしたがって個体化をとげ、もう一方の熱情は強度によって個体化をとげる。あたかも熱情が人称を溶解させたかのように。しかしそうすることによって未分化の状態に陥るのではなく、いつも相互に相手を包みあった、可変的で連続した強度の場に浸されるようになるのです(「それは絶えず動いている状態でしたが、かといって特定の点に向かうのではなく、力が強まる時期と弱まる時期がある。白熱して燃えあがる時期があるかと思えば、おそらく惰性からでしょう、とにかく理由もはっきりしないまま、不安定な状態がつづくこともあるのです。極端な場合にはしばらく自己を保ち、やがて消えていこうとする……自分白身であるということはもはや意味をもたないのです…」)。愛情はひとつの状態であり、人称や主体の関係です。これにたいして、熱情のほうは人の一生にも匹敵する長さをもつ人称以前の(事件)であり(「私はここ十八年来、誰かにたいする、そして誰かのための熱情の状態を生きているのです」)、主体なき個体化をおこなう強度の場なのです。トリスタンとイゾルデの関係は、たぶん愛情でしょう。けれども、いま話題にしているフーコーの文章にふれて、こんな感想を述べた人もいるのです。『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフは熱情だ、純粋な熱情であって、愛情ではない、とね。じっさい、『嵐が丘』は恐るべき魂の兄妹関係であり、もはや人間とは言いきれないものを表現している(彼は誰?―狼さ……)。情動のさまざまな状態を新たに区別してこれを表現し、それぞれに異なる情動を感じ取ってもらうのは並大抵のことではない。フーコーの仕事が中途でとぎれているという事実も関係しているでしょう。フーコーが生きていたならば、生の場合と同じような哲学的射程を、熱情と愛情の区別に与えていたかもしれないのです。ともあれ、フーコーが「主体化の様態」と呼んだものについて、大いに用心してかかるべきだということだけは、きちんと理解しておかなければなりません。フーコーのいう様態には、たしかに主体なき個体化が含まれている。これが問題の核心でしょう。それに熱情も、熱情の状態も、おそらく主体化の場合と同じで、(外)の線を折り畳み、生きうる線につくりかえ、呼吸する手段を身につけるという意味なのではないか。フーコーの死に直面したつらい気持ちをいだきつづけている人たちは、あの卓越した作品が熱情に呼びかけたところでとぎれているということで、悦びをおぼえてもいいのではないかと思います。

 閑話休題。これはα7RにKODAK Ektar 1:3,5 F=5cm No 107****の容姿です。

赤エルマー Elmar 5cm 3.5

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 ヘクトール7.3cmで近場のスーパー=「電飾」を撮ってから、同じ場面を別物で撮りたくなった。今日はα7Rに赤エルマーで行く。(調子に乗るとお咎めを受けるので定点観測とはゆかぬ)
ああ、いいですね。雰囲気は。絞りはみなf4です。
先日のNEX-7/E1.8_35mmにない「立体感」を感じる。あたたかい。(NEXはさむ色)




(α7R/Elmar f=5cm 1:3,5)

↓ここにはLightBoxで6枚あります。

Elmar f=5cm 1:3,5

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 Elmar f=5cm 1:3,5(赤エルマー)での定点観測。1/29の18:20。1/60sec,F8,iso4000。SILKYPIXモノクロTYPE1の現像。PS5.1でWeb用保存(品質85)。


(α7R/Elmar f=5cm 1:3,5)

 ドゥルーズやフーコー、はたまたスピノザやニーチェに惹かれる諸氏よ、あなたは旅先に一冊どれをバッグに入れますか? 毎度のことながら僕もけっこう選択に思案します。今回は「ディアローグ」にしました。

 ドゥルーズを開く。ほどなくなんとも名状しがたい夢見をします。夢見心地はたぶん「現働」と「潜勢」が混ざり合うそんな界隈です。そのような様態が発生する、それが気持ちいいのです。へたな文学(レトリック)よりもはるかに心地よいこの状態を僕は好み手放せないでいます。まあこれは僕に固有の経験かもしれません。しかしドゥルージアンの諸氏には「発生論」的に思い当たる事実ではないか? と確信してもいます。違います? 

 で、「ディアローグ」はまず厚さが300ページ足らずで手ごろ。後期ドゥルーズに接近できる。夢見心地は請け合い・・などなど半病み上がりの僕には好都合と判断したわけです。

 さらに諸氏がシャシン好きであればもうひとつ難題に直面しますよね。これもNEX-7にE2.8/20mmと赤Elmarで極力軽くする。フルサイズEOSと一緒に歩く元気はない。(拡大画像アリ)

(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5/f5.6/Photshop CS5.5)

フーコーの額に穿孔?

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(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5)

 ここんところずっとフーコーを読んでいた。その合間にエルヴェ・ギベールを読む。同書を知ってはいたが読まないでいた。で、読後の感想。後味はよくなかった。『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』という書は「功罪アリ」と感ずる。どこまでが真実でどこまでがギベールの物語なのかわからない。救いがない。それでも、フーコーのモデルとされる男は用意周到に「自己の技法」を貫いた印象がする。ミュージル(フーコーのモデルとされる人物)の最後は「芸術作品」で、皮肉にもギベールを拒んでいるようにも思える。

 医療機関の中でひとつの骸(むくろ)となったフーコー。その中に入れば患者と医師という奇妙で独特の権力関係にはいり、処置されるしかない患者フーコー。特別な権力がどのようにして現在のようになったのか、その歴史的・系譜的な研究をずっとしてきたフーコーが、その病院の中で死んだ。「頸部穿孔をうけたのである。額に孔をあけられた跡があった」とギベールは書いてある。(再度申しますが、それが真実かどうかわからない)

 人はどのようなかたちであるにせよ、死ぬときはたったひとりで黄泉におもむく。僕だっていずれみなさんに「お先に失礼」ってことになる。それもそんなに遠いことではないはずだ。フーコーやドゥルーズの「孤独」を身近におもう。彼らが「権力」にあがらって(さらには利用もして)死んでいったすがたをおもう。フーコーの属性が僕の中にも分け持たれているとおもう。僕もまた新しいギリシャ人を発見し僕なりの実践をしたいとおもうが、そんな過激な力が僕にはあるだろうか?

九博 ボストン美術館

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(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3.5/SILKYPIX)

 大宰府の梅です。開花し始めてます。

 九州国立博物館に「ボストン美術館」を訪ねました。

 よくもまああれだけの宝物を当時売りさばいたものです。奈良時代のものはかすれてよくみえなかった。当時は曾我蕭白は日本では評価が低かったそうだ。しかしフェノロサは目をつけてたわけだからまさに炯眼ですな。岡倉天心とフェノロサとビゲローが一緒に収まってるシャシンもあった。名古屋→東京→福岡→大阪と1年以上も巡回する。いわゆる「場面替え」のない展示らしい。けっこうなことです。見ごたえはありました。

 九州一!と宣伝される「暖暮」でたべて、そのあとスタバに入る。アメリカーノにクリーム2個、砂糖大小2袋で試したらけっこういける。(笑)。ラテはコーヒーって感じがしないもんねえ。

赤エルマー5cm

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 知人のところでいわゆる赤エルマーをNEX-7に取り付けて至近距離で何枚か撮ってみた。これがまあ、僕のもっているノンコーティングのエルマー5cmととてつもなく違うのである。
知人のこれは確か1954年製造ということだった。僕のは1937年だ。譲ってもらおうかな、と考えている。ともかくも拡大画像(横1500)でごらんあれ。上が1m、下が2mです。F8。中央部分でピント。




(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5/SILKYPIX)

バラケのピアノソナタ

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 ジャン・バラケのピアノソナタをeBayで入手。

(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5)

Elmar エルマー f=5cm 1:3,5

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Elmar f=5cm 1:3,5。
枯れた吾亦紅(われもこう)。f4あたりかな。
(拡大画像あり)


Elmar エルマー f=5cm 1:3,5

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NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5の続編。
(拡大画像あり)







フランシス・ベーコンの30年前の図録。1983年。
ネットでゲットしたものです。
見開きには彼が行った時のチケットが貼ってあります。
末尾には1983年8月3日の朝日(夕刊)の記事が
切り抜きで貼付されてます。
彼の思い入れが偲ばれる。

来春、同じ東京国立近代美術館でベーコン展が
開かれます。美術館の60周年になるそうです。
たのしみです。

そうでした、これはエルマーの記事でした。
エルマーは十全に説明されてるでしょうか?(笑)
こんな様式(スタイル)が好きなんですね、きっと。
すいません。

Elmar f=5cm 1:3,5

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Elmar f=5cm 1:3,5
デジカメ(NEX-7)の色は枯淡。
ブルー系は鮮やか。
大陸式(1937年製ですから)のF11あたり。
こんな素材にはよく似合う。


Elmar 5cm NEX-7

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NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5
11月バージョンのスリーブ。大陸式6.3の少し手前。拡大画像あり。











今日はこの席。

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地上の夜の天使たち